







これだけの棟が建っているのに
殆ど生活音がない住宅街は淋しくもあり
異様な感じさえする。
かつては木造の炭住がぎっしり建ち並び、
沢山の人が行きかい、そこかしこから
台所の音とか人の声が響いていて
活気に満ちた街だった。
秋も進み虫の声は既に絶えて、
今聴こえてくるのは
エコーがかかった鳥の声くらい、。
山楽荘へ向かう道の脇に
獣道の様な大曲に向かう
道路への道がある。
あれから半世紀経っても
まだあるという事は
まだ使っている人が居ると
いう事なのでしょう。
山楽荘は今は無く
比較的新しい集合住宅が
建って、結構な世帯が
生活してるようです。
左に六軒長屋、右に広場、右奥に二階建住宅
毎日のように走り廻り、鬼ごっこ、かくれんぼ
缶蹴り、釘刺し、陣取り、パッチ、ビー玉遊び
夕焼けで空が紅くなるまで遊んでいた
当時の面影は皆無
この丘の上に農家の方が馬車に沢山の野菜を積んで
売りに来ていた。
→
この家が何時から建っていたかは
私には記憶が無いが、殆ど倒壊している
後何年原型を保っていられるだろうか。
西小から市街・三区・四区・五区方面へ
向かう道路。
5年生からはこっちから通った。
距離はたいして変わらなかったが、
好きだった子と方向が逆になったのは
とても悲しかった。
西小から六区方面への道路
私は4年生まで此方から通っていた。
何年の卒業生記念作品かは知らない
刻が経ち少しづつ崩れていっているが
出来うるならば西小学校の遺構として
何世紀も残って欲しい。
かつてここで多くの子供達が学び
笑い、怒り、泣いて、創作し、生きていた
その中の一人として切に願う。
西小学校横の坂道
当時右にプールがあり、体育館が在った
左には炭住、ブロック製の二階建て四軒住宅が在った
小学校四年か五年くらいから私の化石採集地点になり
真栄橋の手前の崖を相当崩したのは私です、ごめんなさい。
後に左上の写真の川岸の崖にも化石がある事を発見し
更に広範囲に崩し廻った。
殆ど二枚貝の化石で何時しか一斗缶二杯分溜まった。
今でもこの道は整備されていて生活道路になってるよう
真谷地橋を渡って直ぐ二又になるが、
右が元々あった道
私が幼い刻はまだ左の道はなく
頂上に山楽荘があった丘のすそのだった。
その丘の一部を崩して造った道
左が光聖寺から大曲に向かう道路、上が大曲から山に入る道、
ゲートが設置されて随分になるが、私の遊び廻るテリトリーだった。
この奥で色んな動物たちと出逢い、交流した私にとっての大切な場所。
熊と遭遇したのもこの奥が多い
近くに何本かクワガタをよく採った秘密の木が点在する
今もあるかは不明。
左下は大曲から沼ノ沢に抜ける道路、右下は六区に向かう道路。
夜中じゅう鳴き声が四方から聴こえていた。
天敵がいなくなり増える一方。
私が住んで居た頃は一度も遭遇する事は無かったし
鳴き声も聴いた事が無かった。
熊は何度か遭遇したけど。
一日撮影して廻っていると姿は見えずとも
何度も気配を感じた。
動物のバランスが当時と大きく変わっている事を感じる。
車中泊一日目、夜半まで月明りで
周りの枝々のシルエットに包まれていた。
それ以降は濃い霧に包まれてしまい朝を迎えた

大曲へ向かう途中
光聖寺の右池跡を過ぎ右の道を登った処
木造平屋の教員住宅の生家跡(跡かたもないが)
父は真谷地西小学校の二階で定時制高校の教頭だったが
レッドパージで職をおわれ市会議員になり
長く住んで居たこの住宅を退去させられたのは、
私が小学4年の刻だったと記憶している。
多分二階建て住宅の残骸,、
解体された年は判らないが、
少なくても45年以上は経っていると想う↓
真谷地橋を斜めから



















真谷地に不釣合いに感じるパンダは
まだまだ元気です





















光聖寺、左は墓地に通じる道、
下の写真は昔池だった二つのうちの右の方。



六部への近道へ






左は道道750号線から大曲への入口
右には当時正式名
「北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道」
愛称「真谷地汽車」の線路があって
木の板で造った床だけの真栄町(六区)駅が在った。
終点の「真谷地」駅の近くにあった幼稚園に通ったり、
沼ノ沢に行く刻使ったり。
転任して行く真谷地西小学校の先生を
紙テープで見送った記憶が鮮明です、よく晴れていた。
西小と校長先生の教員住宅の間を通り
道道750腺の五区手前に出る裏道
途中からぐっと道幅が狭くなり
真谷地川を渡って四区へ抜ける獣道の様な
道と分岐していた。
上は狭くなり下りになるところ、
右は四区への分岐から四区を望む
どこも色々手が加えられていて
昔の面影は薄い
真谷地への入口
「真谷地橋」




更に人口が減って空き家が殆ど。
こうして撮影していても人と出逢う機会は
滅多にない。